何が議会改革か?

[ 2025年11月26日(水) ]

私が議員になった時の議会は、議会として独立しているという風には思えない、「執行機関お抱えの議会」というものでした。議会の議員がバラバラですから、一本釣りで議員は執行者に取り込まれていました。

「議員は何とでもなる」という意識が幹部職員にはあったのではないでしょうか。当時の市長は滝口さんでしたが、ある幹部職員に何でも相談していました。私は滝口さんとは異業種交流Gで一緒でしたし、ある幹部職員は結構親しくしていましたが、2人の関係はいびつでした。

大抵の議員は人参をぶら下げられれば、ポチになります。一番の餌は道路であったと思いますが、市から県、県から国という陳情の構図がありました。ある当時の職員から、「我々の事業計画を邪魔する一番手は議員じゃ」と言われました。議員としてすべきことをせずに選挙運動に精を出していたのです。

市民の代表として、市民目線でと、議員は良く発言しますが、どういう議員活動をすればそうなるのかということが実は理解できていない議員が多いのも事実です。政党を背負っている議員はその政党に有利な政策を推進します。選挙母体があるわですから、いかにも市民の代表であるかに腐心しています。

私の考えた議会改革は、新しい議会を創り出すことでした。議員が変われなければ議会も変わらない。

議会改革

[ 2025年11月25日(火) ]

昨日のブログにも書きましたが、議員になってみると、有象無象の世界がそこにはありました。議員に立候補することを決めてからは、議員や議会の仕組みについて勉強していたのですが、呆れることばかりでした。

1市6町が対等合併してできた新庄原市には合併特例により33名の議員が誕生していました。最初の選挙は旧市町で定数を決めて選挙となっていましたので、市会議員と町会議員が混在する議会でした。恐らく、町会議員は合併して町の代表として来ているという自負があり、「負けないぞ」という意識を感じました。

しかし、気負いから議会のルールを無視した脱線があり、議長(谷口琢磨)や事務局はその整理が結構大変だったと思います。本会議場でいきなり、「市長さん」って呼びかけるんですから。そんなことから私は、「議会改革」の必要性を強く感じ、会派結成へと動いたのです。

旧庄原市議会には市長与党的会派が存在していましたが、会派というよりは同好会という趣でした。ですから、私が言うことを中々理解していただけず、昨日書いた通り4名で会派を結成した次第です。議会は議員だけで回せるものではなく議会事務局がエンジンとなる必要がありますが、職員は市長部局採用です。

議会事務局も20年目に比べると議会の事務局らしくなってきましたが、私にはまだまだ不満一杯です。

もうすぐ12月

[ 2025年11月24日(月) ]

今年は色々なことがありました。議員を辞めたことは自分の中ではそれほどの重みは感じていません。市長選挙と市議会議員選挙は自分の選挙運動以上に頑張りましたが、選挙後の燃え尽き症候群はかなりありました。

例年12月は、「1年を振り返り」というタイトルで何回か書いていましたが、今年は「20年を振り返り」ということでボチボチ書いてみたいと思います。自分で言うのも何ですが、よくぞ20年持ったというのが正直な気持ちです。志高く市議会議員に立候補し当選させていただきましたが、議会は有象無象の集まりでした。

このブログを読んで、「相変わらず生意気を書いて」と思われるでしょうが、議会を何とかしなければと本気思いましたね。そこで、先ずは同志を募ることにしましたが、奇人変人の世界ですから何を考えているのかまるで分かりません。で、最終的に、田中五郎、溝口致哲、八谷文策と私の4名で会派「きぼう」を結成しました。

五郎さんはカッコ良く言えば、「万年青年」ですが、全てにおいて、「自分が一番正しい」という人でした。彼には何度も裏切られましたが、最大の裏切りは市長選に立候補してきたことです。どうせ落ちるんだからと選挙期間中、知合いを訪ねてはお茶を飲んでいたというから呆れます。

裏話を書けばいくらでもありますが、「はやしの作り話」となるのは嫌なので、書かない様にします。しかし、時には書くかな?「明日の心だ」。

里山トライアスロン

[ 2025年11月23日(日) ]

本日、県立広島大学庄原キャンパス「さくらプランニング」が板橋まなびの森で、「里山トライアスロン」を開催しました。私も少しだけお手伝いしたのですが、一般参加はなく学生だけのトライアスロンとなりました。

過去のトライアスロンの様子が動画で残っていますから←クリックでご覧いただくと様子が分かります。2011年2012年の動画ですので、現在のやり方と少し違います。最期に松明に火をつけてゴールしていましたが、山火事の危険性が高いとのことで、今では松明は使っていません。久々に観る人もあり、懐かしく思い出しました。

現在は、薪割をして一定の大きさの穴が空いている丸太(スケール)を割った薪が全て通過しないとランに行けないことになっていますので、ここで相当に体力を消耗します。そして急こう配の山の中をランして降りてきますと、ロケットストーブにマッチで火を着けてピーピーケトルが鳴ると、ゴールに向けて走ります。

コロナ禍前までは毎年開催し、OBの参加もあり盛況でしたが、昨年からは学生だけで寂しくやっています。その原因は、我々、「板橋さとやま倶楽部」のメンバーの高齢化にあります。さくらプランニングのメンバーと一緒に山の整備をしたり、炭焼きをして交流会もやっていましたが、活動自体が停滞しています。

これからの方向性を考えていますが、イベントには参加するけど山の整備作業は嫌という人が多いのも事実です。遊びでは山の整備はできません。裏方を引き受ける覚悟が必要です。

三次を回りました

[ 2025年11月20日(木) ]

会社の三次担当の従業員が風邪をひいたので急遽、事務員と私とで三次のお客様を回りました。事務員がナビ役で私はドライバーなんですが、道路が入り組んでおり、「家を建てる前に道を作ろうや」と思った次第です。

私も現場を離れて20年以上経ちますので、久々に三次の畠敷町だったのですが、いやはやその変貌ぶりに「浦島太郎」状態でした。高校が三次だったので三次には愛着もあり、40年程前に1人でコツコツとお客様を開拓して歩いていました。昔と全く変わっていなかったのは自動車学校くらいでした。

庄原市の場合、大抵、道を作ってから宅地開発というか宅地の販売をしています。第一、道が農道の様な所には団地は作りませんが、三次はお構いなしに農地が小さな団地となっていきます。家が見えるけど、道がない。どうやって行くんだろうと道を探すこともあります。

それと不思議に感じたことがもう一つあります。新築物件がドンドン着工されている反面、空家も相当数あります。それも混在しているという不思議な光景でした。恐らく、畠敷町はちょっとした不動産バブルが進行中だと思いますが、後追いのインフラ整備が大変です。(あくまでも個人的感想ですので、悪しからず)