― 庄原市政や日々の出来事に関する事を書いています
[ 2008年5月13日(火) ]
私も気をつけなければならないのだが、「言葉」の持つ力を知って使わなければならないということだ。別に私が言葉の暴力にあったと言うことではないのだが、ある若者が何気なく言った一言が妙に引っかかる。
今も考えているのだが、恐らく、若者は言葉の本来の意味を知らずに使っているのではないだろうかと。私も日本語を正確に使えるかと言われれば怪しいのだが、ひどくおかしい使い方はしていないだろうと思っている(それほど、自信がないということですが)。昔ハワイに言った時、現地ガイドの日系2世が使う日本語に感心したことがある。それは、日本でも滅多と使わなくなった言い回しの日本語を使われていたからだ。
生活が乱れると言葉も乱れると言うが、全くその通りです。変な言葉使いになった子供を観察していると、友人関係に問題があったりします。それまでの友人とは異なる友人が表れてきています。テレビの影響も無視できません。タレントが訳の分からない言葉を使うと、カッコいいと勘違いするのか、流行言葉になっていったりします。直ぐに短縮したり、英語?にしてしまう癖も見受けられます。
中には、話し言葉が使えない人もいたりします。つまり、会話が成立しないわけです。「何が言いたいんなら」と言いたくなるほど、まどろっこしい人に出会うこともあります。会話が殆どない家庭もあるのではないでしょうか。朝からの会話を思い出してみてください。「おはようございます」すら言っていない人が多いのではありませんか。
私の先輩が「言霊(ことだま)」という言葉を良く使います。彼は私に、「今は、否定するときだ」と言ったり、「今は、うなずくときだ」と言います。「お前は、理解しとらんのう」となるのですが、言葉の裏に隠された意味を理解できない、理解しようとしない自分がいるようです。つまり、言葉を使うには感性がいるということです。
訳の分からないことを書き綴りましたが、言葉には責任(重み)もあるということが言いたかったのです。
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