― 庄原市政や日々の出来事に関する事を書いています
[ 2022年8月5日(金) ]
1945年8月6日に広島市に原子爆弾が投下されました。実は私は被爆2世です。母が広島市内に暮らす姉の家族を探しに市内に入ったことによる、「入市被爆」と認定されています。その時、姉のお腹には赤ちゃんがおり、その後、胎内被爆した赤ちゃんを産みました。
伯父の被爆は相当に酷かったみたいで、我家に身を寄せて治療したそうです。伯母は我家で赤ちゃんを産みましたので、今でも従姉は、「私は庄原生まれ」と言っています。その後伯父は元気になり働いていましたが、原爆症で亡くなりました。胎内被爆の従姉は若い頃はいつまで生きられるかとビクビクしていましたが、お蔭様で今でも元気です。
そんな関係から、伯母の家族とは本当に仲良く、高校生の頃までは良く行き来していました。ですので、広島で8月6日を迎えることもあり、8時15分には全ての時間が止まった様になり全員で黙祷していました。それが、大学に進学して大阪にいた8月6日8時15分、誰も立ち止まりもしない、誰も黙祷もしない、ショックを受けました。
広島市や長崎市には原子爆弾が落とされ多くの被爆者が未だに苦しんでいます。ロシアにようウクライナ侵略で原子爆弾をロシアが使うのではないかと心配されていますが、原子爆弾の恐ろしさは被爆地に来て被爆者の話を聞き、原爆資料館で実相に触れることでしか理解できないのかも知れません。被爆者の高齢化による風化が心配されいますが、語り続けなければなりません。
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